大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和63年(う)908号 判決 1989年5月10日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人安藤猪平次作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官谷本和雄作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意中、事実誤認の主張について

論旨は、要するに、原判決は、本件追突時の被告人車の速度を時速約六キロメートルと認定しているけれども、原判決がその認定の根拠としている鑑定書は、推定可能な最大値領域の数値を示したものであって、理論上その最小値は時速二・六六キロメートルと推定できるので、他に具体的な速度を確定するに足りる証拠のない本件にあっては、その速度は時速三キロメートル以下と認定すべきであり、この速度を前提とすれば、被告人の運転方法には他人に危害を及ぼす危険性はなかったものであるから、被告人は無罪であるにもかかわらず、前記速度を認定して被告人を有罪とした原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というのである。

そこで、所論と答弁にかんがみ記録を調査し、当審における事実取調べの結果をもあわせて検討し、つぎのとおり判断する。

被告人の原審及び当審における各供述、被告人の検察官事務取扱検察事務官及び司法警察員に対する各供述調書、原審証人Aの証言、司法警察員作成の実況見分調書によれば、被告人は普通乗用自動車(タクシー)に乗客四名を乗せて運転中、神戸市東灘区深江浜町一番地先の神戸市道(歩車道の区別があり、中央分離帯の設置された片側幅員一一メートルの三車線の道路)の第三車線を北に向かって進行し、前方の信号機の設置されている横断歩道を通過しようとした際、右横断歩道南側の停止線手前で信号待ちのため第三車線に停車しているA運転の普通乗用自動車をその手前約三〇メートルの地点で発見し(なお、その際、第一、第二の各車線には各二台の信号待ちの停車車両があった。)、同車の後ろに停止すべく時速約一〇キロメートルに減速したが、同車の手前約二〇・七メートルの地点で運転席左側に置いてあった日報を見て前方注視を欠いたまま進行したため、同車の後部に追突し、同車を約三〇センチメートル押し出して停止したことが認められる。

ところで、右追突時の被告人車の速度について、被告人は、捜査段階では時速約一〇キロメートル、公判段階では時速約二、三キロメートルとそれぞれ供述し、鑑定人である佐々木恵は推定可能な上限値が時速五・二五ないし六・四七キロメートルと鑑定しているところ、検察官は、右の鑑定はA車の後部バンパーの衝突痕や後部バンパーを支えるステーの曲損を度外視したもの、特にステーの曲損については鑑定時に判明していなかったもので、正確性がなく、被告人の捜査段階での供述の方が信用性があるというので、右鑑定及び被告人の捜査段階での供述の信用性について検討する。

原審証人Bの証言、前掲実況見分調書、司法警察員作成の昭和六一年一一月四日付捜査復命書によれば、本件追突後に行われた実況見分やA車の修理の際、被告人車には前部バンパーの左右両端に軽微な擦過痕が、また、A車には後部バンパーの右端の角に軽微な擦過痕のほか、後部バンパー右側部とバックドアとの間隙が狭くなっており、後部バンパーを支えるステーが曲がっていることが認められたところ、被告人車とA車の右の各損傷の部位が追突の態様と符合しないことなどから、ステーの損傷を含むそれらの損傷が本件追突によるものとは言えないとする佐々木の鑑定結果及び当審における証言には一応の合理性があること、前掲捜査復命書によれば、A車の後部バンパーの右端の角には五か所の擦過痕が認められるところ、A車の実況見分を担当した警察官である原審証人酒井輝明の証言によれば、同人は実況見分時に五か所の擦過痕のうち一か所のみが本件追突による損傷と判断していたことが認められ、これを前提とすると、A車の後部バンパーやステーの変形は他の四か所の擦過痕が出来た際のものとも考えられ、本件追突の結果とは断定できないこと、前掲証人Aは、被告人に追突される以前には自車の後部バンパー等に損傷はなかった旨証言するけれども、医師である原審証人黒田英一、同市橋大の各証言によれば、Aは被告人車に追突されたことを奇貨として詐病を装った疑いが強いことが認められることからすれば(原審において当初の業務上過失傷害の訴因が安全運転義務違反の訴因に変更されている。)、同人の前記証言は信用できないこと、前掲証人Bは、本件の二日前にA車の洗車をした際には、前記損傷はなかった旨証言しているけれども、既に二日を経過していることからすれば、右の証言は前記のA車の損傷が本件追突の結果であると断定する根拠とはならないこと等を考えあわせると、鑑定人佐々木が、被告人車の追突時の速度を鑑定するにあたって、被告人車及びA車の損傷を考慮しなかったことは相当であり、追突時のA車の移動した距離、同車(AT車)の追突時のセレクトレバー位置(Dレンジ)とブレーキの状況(ブレーキペダルを踏んでサイドブレーキをかけていない)等から推定可能最大時速を五・二五ないし六・四七キロメートルと算出した鑑定結果は信用できるものといえる。

一方、被告人の捜査段階での供述を見てみると、前掲証人酒井の証言によれば、被告人は取調べの際、追突時の速度については、「自転車がゆっくり走る程度で一〇キロぐらい」と述べたというのであって、被告人の述べる速度の基準は「自転車がゆっくり走る早さ」にあって、具体的な数値には格別の意味はないから、被告人が捜査段階で供述する追突時の速度は、必らずしも右の鑑定結果と矛盾するとはいえない。

してみると、被告人車の追突時の速度は、時速は約六・五キロメートル以下であり、その具体的な速度は確定できないものといわざるをえない。

ところで、道路交通法七〇条後段違反の罪は、道路、交通及び当該車両等の具体的状況との関連で、それが一般的にみて他人に危害を及ぼすような事故に結びつく蓋然性の高い危険な速度、方法による運転行為とみうる場合にのみ成立し、また、「他人に危害を及ぼさない」とは、他人の生命、身体に対する危険を発生させないことを意味し、かつ、その危険は具体的に発生する必要があると解するのが相当であるから、もし、その運転方法、速度が人の生命、身体に対する危険を具体的に発生させる可能性のないものである場合には、同条違反は成立しないものといわざるをえない。

これを本件についてみるに、被告人が、約二〇・七メートルの間、脇見をして前方注視を怠ったまま自車を進行させた運転方法それ自体は、抽象的には他人に危害を及ぼさない運転方法とはいえないけれども、前記認定の本件道路の状況等からすれば、被告人車の進路に他車や歩行者が入り込むことは通常ありえず、右運転方法による事故発生はA車との追突以外には考えられないので、同車との関係でみるかぎり、前記認定のとおり被告人車の追突時の速度は時速約六・五キロメートル以下であり、かつ、前掲鑑定書によれば、被告人車の追突時の速度が時速六・五キロメートルの場合におけるA車の乗員の受ける衝撃は、自動車の急発進の際のそれと同程度で、乗員の頭部の後傾角は可動範囲の一〇度位であり、その上体はシートバックに押しつけられるようになる外力が作用するくらいで、衝撃があったといえない程度のものであることが認められるから、前記速度以下の可能性のある本件では、被告人車の乗客は勿論、A車の乗員に対しても、その生命、身体に対する危険発生の可能性があったこと、即ち、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなかったと認めるには、合理的な疑いを入れる余地があるといわざるをえない。

してみると、被告人の本件所為は、故意(本位的訴因)又は過失(予備的訴因)の有無について判断するまでもなく、道路交通法七〇条違反の罪には当たらないものというべきところ、被告人の本件追突時の速度を時速約六キロメートルと認定したうえ、前方注視を欠いた運転方法をもって他人に危害を及ぼす可能性があるとして、同条違反の罪の成立をみとめた原判決は事実を誤認したものであり、これが判決に影響を及ぼすこと明らかであり、破棄を免れない。論旨は理由がある。

よって、その余の控訴趣意についての判断を省略し、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書に従いさらに次のとおり判決する。

本件本位的訴因の公訴事実の要旨は「被告人は、昭和六一年七月三一日午後零時三〇分ころ、神戸市東灘区深江浜町一番地先路上において、普通乗用自動車を運転して進行するに際し、進路前方の安全を確認せずに時速六キロメートルで進行し、前方に停止していたA(当四九年)運転の普通乗用自動車に自車前部を追突させ、もって他人に危害を及ぼすような速度と方法で運転したものである。」というのであり、予備的訴因の公訴事実の要旨は「被告人は、昭和六一年七月三一日午後零時三〇分ころ、乗客四名を乗せ普通乗用自動車を運転し、神戸市東灘区深江浜町一番地先市道の中央寄りを時速三〇キロメートルで北進中、進路前方約三〇メートルの信号機のある横断歩道南側の停止線手前で信号待ちのため停止しているA運転の普通乗用自動車を認めたから、同車の動静を注視し、追突をしないよう同車の後方に停止すべき注意義務があるのに、自動車運転席左側にある日報の方をみて前方注視を欠き、引き続き停止中の右A運転車両の後部に自車前部を追突させるに至るまで脇見して時速数キロメートルで進行し、もって過失により他人に危害を及ぼすような方法で運転したものである。」というのであるが、前記説示のとおり、右各公訴事実については犯罪の証明がないので、同法四〇四条、三三六条に従って被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 西村清治 裁判官 石井一正 裁判官 瀧川義道)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例